スタッフ松本の 青山眼鏡考察
青山眼鏡の歴史、ここにあり。
なぜ、青山眼鏡の歴史について学ぼうと思ったのか。
TOKYO BASEで働き始める少し前、研修を受けるために、わたしは初めて青山眼鏡を訪れた。
デザイナーの2人から直接、青山眼鏡の歴史、ブランドの成り立ち、大切にしていること、ゆずれないこと、未来のことなど、たくさんの話を聴いた。普段は隠されている工場の心臓部を見せてもらい、秘密の製造方法を目の当たりにした時、感動はあるけれどそこまで驚いていない自分に気が付く。特別な機械で特殊な加工を行なっていることは、わたしの中にある「FACTORY900」のイメージにピタリと当てはまったからだ。
その印象が一変したのは、最終工程である磨きの工程を実際に体験した時だ。
もちろん、フレーム形状の大部分を形づくるのは機械で行われている。わたしが驚いたのは、その後の工程にかかる手作業の多さである。フレームシェイプの微調整に始まり、段階に分けて行われる磨きの作業。検品作業も熟練の職人の目で見極められ、その厳しさゆえに製品として出荷されないフレームが山と積まれていく。作った本数に比べて製品として認められるもののあまりの少なさに愕然としたことを覚えている。
あんなに未来的なデザインでありながら、数をつくらなければならない製品でありながら、こんなにも1つ1つに手間暇をかけているのかと。それが当たり前に行われていることに対する驚きが、青山眼鏡に対する興味に変わるのにそう時間はかからなかった。自社工場のこと、それだけでなくメガネのこと、メガネの産地として福井が有名になったきっかけなどをもっと知りたいと思ったので、この考察を始めることにした。
- メガネ産地 福井・鯖江について -
今、「国内のメガネ産地は?」と問われれば、メガネへの関心の程度に関わらず、多くの人が“鯖江”という地名を思い浮かべるのではないだろうか。
鯖江市といえば、福井県のほぼ中央に位置する、人口約7万人のまち。
モノづくりが盛んで、日本一のシェアを誇るメガネのほか、業務用漆器の国内シェア8割を占める越前漆器、繊維王国といわれる福井の中心的位置を占める繊維など、日本有数の技術を誇る産業都市である。
しかし実際には、多くの眼鏡関連の事業所が福井市と鯖江市にまたがるように、広く存在している(ちなみに弊社・青山眼鏡は、鯖江市との市境になる福井市南部に位置する)。厳密にいうと、この福井・鯖江を中心にして、国内生産の9割以上を生産する一大眼鏡産地として確立されている。
福井・鯖江の眼鏡産業の歴史は100年を越えて、今や高度な技術力と品質を誇り、イタリア・中国と並ぶ世界三大産地の一つに数えられている。
- 青山眼鏡について -
工場
先代の時代はOEMに特化していた工場であり、鯖江のプラスチックフレームメーカーとも深い繋がりがあった。その繋がりの中で、他のメーカーで作成不可能と言われたものが、依頼として多く持ち込まれてきた。それは、工場として依頼された仕事を拒まず、「無理」と言う前にどうつくるかを考えるチャレンジ力を大事にし、その向上心により上がった技術力で、無理難題を可能にしてきたからである。
その姿勢を崩さず歩み続けた80年以上の歴史と蓄積された技術が、二次元で描かれた斬新なデザインをも、正確な立体造形としてつくり出すことを可能にしている。
また、卓越した機械技術は誰にでも使いこなせるものではなく、厳しい選別の目や精確な手の感覚は、一朝一夕では手に入らない。現在も20人に満たない少数精鋭の職人の手で、青山眼鏡の技術は守られ、日々磨かれている。
余談だが、 『青山眼鏡株式会社』 というメガネ関連の会社は、当社を含め2社存在している。まったく同じ社名ではあるが、弊社とは何の関係性もない。
歴史
現青山眼鏡の社長の曾祖父にあたる青山彦左衛門が、明治38年に福井県河和田村小坂(現在の鯖江市河和田町)の青山家にて、東京から眼鏡職人を招き眼鏡づくりを始めた。当時、河和田の郵便局で局長代理として働きながら、眼鏡づくりもし職人たちも指導していた。しかし明治41年ついに郵便局長の職を受けなければならなくなったため、弟子も道具もともに、従兄弟である増永五左衛門へ預け、河和田での生産は一旦中止した。
その後、彦左衛門の次男、勝彦(現社長の祖父)が、父親の始めた眼鏡づくりを復活させる為に、増永眼鏡の門をたたく。そして17年後の昭和12年、増永眼鏡から独立、福井市半田町にて福井共同眼鏡製作所(現青山眼鏡)を創業した。第2次世界大戦中は、物資として扱われていたセルロイドの供給を受けるために福井眼鏡有限会社とし、その後、青山眼鏡製作所と名前を変え、昭和44年に現在の青山眼鏡株式会社となった。
現社長の祖父、勝彦が創業した青山眼鏡の歴史は80年。曾祖父、彦左衛門が眼鏡づくりを始めてから110年の歴史は、そのまま福井県の眼鏡産業の歴史である。
生産体制
現在鯖江には500社以上のメガネ関連会社が存在するが、そのほとんどが分業制である。企画・デザインしたものを他の工場に作成を依頼する会社が多く、製造は他の工場に頼らざるを得ないのが現状である。その工場自体も量を作るための効率化を重視してきたため、分業化が進み、ある一部の行程のみを行う工場がほとんどである。
対して青山眼鏡は、企画・デザインのすべてを手掛けるだけでなく、製造工程の9割以上を自社工場の中で行っている。これはブランドを立ち上げるより以前、80年以上をかけて培ってきた高い技術力があってこそ、実現できることである。2015年には直営店も誕生し、現在では企画・デザインはもとより、製造から販売までを一貫して行う、『ファクトリーブランド』となった。
製造過程のほとんどを自分たちの手で行っているため、製品の特性も欠点も知り尽くしている。だからこそ、より細やかなアフターフォローが可能になる。メガネは使い捨てではなく、使う人とともに歩んでいくものである。そのメガネとの生活へ寄り添うように支えられることこそ、分業制の企業では真似できない確かな強みであると考える。
製造方法
製造方法については、一切企業秘密になっており、工場見学も不可。
一般的に、プラスチック製メガネの製造方法は大きく2つに分けられる。アセテートの板状のシート材を曲げて切削していく方法と、粒状のペレット材を熱で溶かして液状にし、金型に流し込んで整形するインジェクション (射出成形) と呼ばれる方法である。前者は手作業の占める割合が非常に大きく、手間がかかるため生産数も限られる。後者の方法は金型さえつくってしまえば形の自由度が高く、非常に量産がしやすい。そのため、アセテートに限らず世の中のプラスチック製品のほとんどは、この製法が用いられている。メガネでは、スポーツサングラスや割と安価なサングラスなどがこの方法でつくられる。
一見、FACTORY900 など青山眼鏡で製造されたものを見ると、非常に自由度の高い造形であるため、インジェクションによりつくられたものだと誤解されることも多い。しかし実際には、アセテートのシート材から曲げと切削によって形づくられているのだ。その製造方法は世界でも唯一の独自の技術であり、メガネ製造に携わるプロが見ても、どのようなプロセスを経て生み出されるのか想像もつかないと言われる程である。
血筋/歴史の担い手たち
福井県のメガネの歴史の中で、常に新しい道を切り拓いてきた。イノベーター(革新者)の一族。
青山彦左衛門 アオヤマヒコザエモン (1879-1961):現社長の曽祖父。鯖江がメガネの産地と呼ばれる基盤を作り上げた功労者の1人。増永五左衛門の母は青山家から嫁いでいるため、彦左衛門とは従兄弟関係にあたる。
青山勝彦 アオヤマカツヒコ (1905-1994)
:現社長の祖父。青山眼鏡の創業者であり、鯖江で初めてセルロイド製眼鏡の研究開発を始めた人。高等小学校卒業後、増永眼鏡にて修行をはじめ、直に頭角をあらわし、眼鏡を作るために必要な技術や道具を数多く生み出した。その中で、セルロイド製眼鏡の研究開発を進め、1937年に増永眼鏡から独立してセル枠専門の工場として青山眼鏡を創業した。
青山恭也 アオヤマキョウヤ (1939-)
:青山眼鏡株式会社会長。現社長の父。メガネづくりにNC (※1) を持ち込んだ先駆者。1970年に東芝と組んでメガネ専用のNCメガネ切削機を開発し導入。その後、工作機械の性能の向上にともない汎用機をベースにシステムを構築、現在の5軸マシニングセンターによる独自の3次元造形技術の確立に至っている。サシモダンやプラ枠のT溝加工等、プラ枠製造における数多くのアイディアを出し続けてきた。未だ現役の職人。
青山陽之 アオヤマタカシ (1969-)
: 青山眼鏡株式会社代表取締役社長。開発と設計を一手に引き受けるシステムエンジニア。学生時代から常に父恭也の傍らにいて、共にシステムの構築に携わり、主にソフト面の開発を行ってきた。個人の顔型にあわせて眼鏡を削り出すオーダーメイドシステムから、今の青山眼鏡の中で最も重要な技術の1つである、自社独自のCAM (※2)の構築まで、その範囲は様々である。
青山嘉道 アオヤマヨシノリ (1972-)
: 青山眼鏡株式会社専務取締役。現社長の弟。職人でありデザイナー。80年以上に渡って受け継がれてきた歴史と伝統、その手作りや職人といったイメージの中に、突出した技術力を礎にして 「デザイン」 という革新を取り入れた人。世界的なアワードを次々に獲得したことで、積み重ね切り拓いてきた歴史と伝統が世界に通用することを証明した。
※1・・・数値制御。行う動作を数値情報で指令し、工作機械を自動制御する方式のこと。精度の高い工作が可能となる。
※2・・・工作機械の加工プログラムを作成するソフトウェア。
FACTORY900について
名前の由来
鯖江製メガネの知名度が上がるにつれて、福井・鯖江で製作されたとする産地偽装の問題が浮上してきた。そこで、福井県眼鏡工業組合として産地を明確にするため、平成6年に工場ごとに番号が振り分けられた。青山眼鏡に振り分けられた識別登録番号 (工場番号) が900番であり、ブランドネームにその番号を使用して名付けたのが、「FACTORY900」の由来である。
FACTORY900
80年という長い歴史の中で培われた高い技術をもって、自分たちのつくりたいものを自由に表現するために生まれたブランドである。
2000年にスタートしたブランドだが、当時はOEMのためのアイデア集になる予定だった。しかし、自分たちのブランドを持ち、自分たちで価格を付けて、OEMのみを取り扱う工場から『メーカー』に生まれ変わる時だという考えの元、翌年の2001年に青山嘉道デザインのモデルが誕生し、自社のブランドとしてIOFTでの訴求を開始した。
FACTORY900をデザインする上で、大切にしているのは『モノ』そのものであり、根幹にあるのは「メガネを見ただけで人は泣けるのか」という疑問と、「美しいモノをつくりたい」「人を感動させるモノをつくりたい」という想いである。
しかし、美しさは『モノ』そのものに宿るわけではない。何を美しいと感じるかは、見る者によって変化する。美しいと“感じる”ということは、“心を動かされた”ということであり、多くの人に美しいと感じてもらうには、より多くの人の心を動かすモノをつくらなければならない。
心を動かすことに焦点を当てれば、新しいモノ・未知のモノは“驚き”という意味で万人の心に力を加える。その「新しいモノ」を「未来」に置き換えて、『the futures eyewear』という言葉をコンセプトとして掲げてきた。いつか万人の心を動かすため、常に「新しさ」を追い求めている。
参考資料
さばえ人物ものがたり(下巻)
メガネと福井 産地100年のあゆみ